プロジェクション・フィルム(仮)

いろいろ考えたことを言語化して焼き付けておくためのブログ。話題は研究・身体・生活から些細な日記まで雑多に。ほぼ毎日21時更新です

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僕は生きたり死んだりしている

こんばんは,ゴドーです.


朝,目覚めた直後,夢を観ていた記憶が僅かに残っていることがありますよね.

今朝はそのパターンで,夢の最後の方だけ覚えていました.


その夢というのは,普通に朝スーツに着替えて玄関から出ようとしているのですが,靴を履こうとしたところで靴下を履き忘れていることに気が付き,部屋に戻って靴下を履くという夢でした.

なんのファンタジックな展開もない,非常に地味な夢ですが,目覚めてから面白いなぁと思ったことがひとつありました.

それは何かというと,玄関で靴下を履き忘れていることに気が付いた場面と,部屋で靴下を履いている場面が,ほぼ連続で展開されていたんですよね.


面白いと思ったのは,この場面間ジャンプが,玄関から部屋まで移動する過程は意識に登っていないということを示しているように感じたからです.

つまり,客観的に見ると玄関から部屋まで身体を操作して戻っていく様子が観察されるはずですが,当人としてはこの間をほぼ無意識で移動しているのではないかということです.

そして,部屋に戻って靴下を手に取り,足に嵌めようとしている辺りで,またピントが合いはじめるように意識が戻ってくるのではないかと.


他の人がどうかは知りませんが,僕は普段生活していて,意識レベルが低いというか,ピントが合っていない状態が頻繁にあると自覚しています.

例えば,トイレの帰りに給茶機でお茶を組もうと思って,給茶機の横にカップを置いてからトイレに向かい,トイレで用を済ませた後,そのまま自席へ戻ってくることがしょっちゅうあります.

つまり,トイレと給水を同時に済まそうとしている時点ではピントが合っているものが,移動している間にぼやけてきて,はっきりした意識がないままトイレを済ませ,そのまま自席へ戻っているように感じるのです.


客観的に見れば,当然僕は生きて行動し続けているように見えていると思いますが,内観的には,非常に意識が詰まっている「生きている」度合いの瞬間もあれば,意識が散漫で考えている自覚もないほぼ「死んでいる」瞬間もあります.

まるで波束が収束したり拡散したりを繰り返すように,意識が固まる瞬間とぼやける瞬間が交互にやってきているイメージです.

こうやって文章を書いている間も,考えながら書いているというよりは,打鍵し始めるまで考えていて,あとは思考の惰性で打鍵しているようにも感じます.


ここでいう「生きている」「死んでいる」は生物学的な定義とはまた異なると思いますが,個人的には感覚としては,なかなかしっくりくる表現だと思っています.

この「生き死に」は0か1かのような離散的な状態ではなくて,むしろピントが徐々に合ったり離れたりするように,連続的になっているイメージです.

つまり,「とても生きている」瞬間もあれば,「ちょっとだけ生きている」瞬間もあるということです.


ただ,主観として「生きている」度合いに強弱があるとしても,傍から見れば僕は今のところ生き続けているし,それこそ深く眠っている=「ほとんど死んでいる」間も身体は活動しているわけです.

このような自分の意識が届かない「あまり生きていない」時間をいかにコントロールするかが大切なんだろうと思います.

顕微鏡のピント調節ネジを回すように,「生きている」度合いを直接思うがままに制御できるわけではありませんが,ぼやけている意識に何かを渡しておくことはできるようです.

例えば僕がよくやるのは,自分の研究について抽象的なレベルで考えたり,また誰かと議論するというのを,金曜日にやっておきます.

すると週末,仕事から離れている間に,「あまり生きていない」自分がアイデアを考えてくれて,ときどきフッと生き返ってくることがあるのです.

僕はこれを「種を蒔いておく」と呼んでいます.


最新の脳科学について詳しいわけではなく,以上の話はあくまで主観に過ぎないのですが,なかなかおもしろいイメージだと思っています.

昔から様々な哲学的議論がなされてきたことからも分かるように,意識の問題は興味が尽きませんね.


それでは,また.

/ゴドー