プロジェクション・フィルム(仮)

いろいろ考えたことを言語化して焼き付けておくためのブログ。話題は研究・身体・生活から些細な日記まで雑多に。ほぼ毎日21時更新です

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祖父の告別式・火葬を終えて

こんばんは、mulfunctionです。

祖父の葬儀を終えて、東京行きの新幹線で帰宅中です。門司港で花火大会があるらしく、在来線が遅れており、それを待ち合わせる新幹線が発車を見合わせていた関係で、一本早い新幹線に乗ることができました。


今朝はホテルで軽食をとり、昼は駅前で豚骨ラーメンを食べました。タクシーで斎場まで移動し、告別式を執り行いました。私の会社からも弔電が来ておりました。感謝。

初七日も合わせて執り行う方式だったので、焼香を2回行いました。浄土真宗本願寺流で、お灰を1度だけ摘み、そのままおしいだかず隣の器に移すスタイルでした。

お経上げが終わり住職が退出した後、送られてきた花々を祖父の御棺に敷き詰めました。蓋を閉め出棺前の最後のお別れとなったところで、父や叔父夫妻が慟哭し、私も激しく心揺さぶられ、涙しました。祖父の頬に触れて、当たり前ながら、冷たいと感じました。

御棺の蓋を閉じ、最後に喪主である父が挨拶をしました。初めての喪主として落ち着かないながらも普通の表情でいた父が、「ずっと生き続けて欲しかった」と涙する姿は、この先も忘れないだろうと思います。

火葬場に移動するため親族は先に退出し、霊柩車に同乗する父と私が部屋に残りました。椅子に並んで座ったとき、父はもう、見かけは平常に戻っていて、まぁいつかはこうなるし仕方ないと言いました。落ち着いた風の父に対し、私はそのときが一番心拍が大きく打ち、嗚咽が溢れそうになりました。


霊柩車に乗って火葬場に移動し、御棺と一緒に入場しました。父は位牌を持ち、私は遺影を持ちました。ドーム状の火葬場は炉の振動か、大きく地鳴りのように震えていました。いくつか、火葬中の炉の前には遺影が置いてあり、祖父の御棺は空いてる炉の前に運ばれました。

最後にもう一度、御棺の蓋を開け祖父の顔を見ました。再び蓋が閉じられ、御棺が炉に納められて、炉の扉が閉じられました。最後に、父は閉じられていく扉の中を少し覗こうと乗りだし、すぐ止めていました。父が緑色のボタンを押して、静かに火葬が始まりました。


遺体が焼かれ冷めるまで、2時間弱ありました。その間、待合所で親族とサンドイッチを食べたり、祖母と会話したりしました。祖母はよく食べ、またよく喋って疲れたようで、納骨の準備ができたとアナウンスがあったときには、うとうと寝ていました。

納骨堂に移る途中、これでいよいよ終わりやな、と父が言いました。部屋でしばらく待っていると、祖父の遺骨が運ばれてきました。こうなったらおしまいや、と父。

遺骨は軽く、乾燥しているようでした。まず、父が喉仏を小さい器に移し、次に父と叔父夫妻、私を始めとし、親族が順番に、遺骨を1つずつ大きな器に入れました。一巡したところで、父と叔父が最後まで箸を持ち、頭の骨を被せるように納めて納骨が終わりました。

待ち時間に対して納骨は速やかに終わり、親族はそのまま三々五々帰っていきました。私も叔父の車で最寄りの駅まで送ってもらい、叔父夫婦やもう一泊していく父、祖母に別れを告げて電車に乗りました。


冒頭で書いた通り、現在は東京へ戻る新幹線の中です。祖父が死んだということは、訃報を聞いたときから分かっているはずですが、咀嚼しきれていないようにも感じます。気持ちは落ち着き、鎮静化しているようです。

一番衝撃を受けたのは出棺時に蓋を閉める前で、あのときが一番、死別の実感があったように思います。臨終の瞬間に立ち会うことはできませんでしたが、祖父の死を感じられる瞬間は、最初の訃報・通夜で祖父の顔を見たとき・火葬前・納骨時と様々あったはずで、仏教的には往生のタイミングもまた別に規定されているのだと思いますが、私が一番悲しい気持ちになったのは、御棺の蓋を閉める最後の時でした。


出棺前に、父と二人で座っているとき、通夜後に祖父の御棺の前で一緒にお酒を呑んだと言っていました。祖父も父と同じく酒好きの九州男児で、私が幼い頃もよく呑んでいたし、老いて自分が呑めなくなってからも、周りの人に呑ませようとよく勧めていたようです。

父は、御棺の前でお酒を呑んだ後、トイレに行くと誰もいないのに小便器の水が勝手に流れたと言っていました。一緒にトイレいったんやね、と私は言いました。

普段、新幹線でお酒は呑まないのですが、東京までまだ3時間ほどあるし、せっかくなので、車内販売でビールを買いました。銘柄はよく分からなかったので、とりあえず一番搾りにしました。

明日も慶弔特休をもらったので、ゆっくり過ごそうと思います。


それでは、また。
/mulfunction