こんばんは,ゴドーです。
エンタメにせよ科学研究にせよ言論にせよ,誰が作ったか・言ったかよりもコンテンツの中身が重要だと思いますが,しばしば作者の名前でコンテンツが評価されることがありますね。
肩書きに応じてコンテンツの信頼性を判断したり,またコンテンツの受け取られ方が変わったりすることは,ときに便利ですし完全に否定するわけではありませんが,作者の存在そのものがコンテンツに内包されているのでなければ,コンテンツは作者と分けて評価されるべきだと思います。
たとえば今日の情報処理学会で「IPSJ KIDS」というタイトルで小学生の研究発表セクションが企画されていましたが,科学研究というものは研究者の肩書きではなく研究内容で判断されるべきものの代表例ですね。
実際,このセクションで発表された研究はちゃんと研究として成り立っていて,「小学生にしては」のような研究者の属性に応じた評価はなされていなかったと認識しています。
また,最近では小学生ボカロPが話題になっていましたが,これも「小学生にしては」作品がよいという話ではなく,聴衆に好まれる音楽コンテンツの作者がたまたま小学生であったという話でしょう。
特定の個人が優れたコンテンツを量産し続けることで,次第にその名前がコンテンツと一体化するブランド化現象が起きることは頻繁に観察され,これ自体を否定するものではなく、むしろエンタメの世界におけるファン活動は好ましいと思います。
また,言論その他において優れたコンテンツを生み出す個人に有資格者や専門家といった肩書きがつくことで,毎回過去のコンテンツを確認せずともその個人の能力が測りやすくなるというメリットがありますね。
ただ,いずれの場合でもまず初めに優れたコンテンツがあったからその作者が評価されるようになるのであり,初めから作者の属性だけを見てコンテンツの良し悪しを判断するのは誤謬であると言えます。
特に,科学の分野においては権威主義が排されるべきだと思いますし,なんだか偉そうな先生の言うことだから正しいだろうといった判断は科学的ではないことを肝に銘じておく必要がありますね。
それでは,また。
/ゴドー