プロジェクション・フィルム(仮)

いろいろ考えたことを言語化して焼き付けておくためのブログ。話題は研究・身体・生活から些細な日記まで雑多に。ほぼ毎日21時更新です

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コロナ禍で表出した”証言のゲーム”

こんばんは、ゴドーです。


それなりにバズっていたツイート。

「呪術的」というのは言い得て妙な表現かなと思います。


個人的に関連するかなと思う話題として、病理医漫画『フラジャイル』の最新刊にて印象的な言葉がありました。

「医者が拠って立っていいのは科学だけだ」

「臨床は科学じゃない 文学だよ 文学が描くのは人間だ」

主人公である病理医・岸先生と臨床医との会話で、これを聴いた新人病理医の宮崎先生は「真実を追求する科学と人に寄り添おうとする臨床」のどちらがいい医者なのかと考える、というストーリーになっています。

コロナ禍になってリスクコミュニケーションというワードが一層メジャーになりましたが、一般人を動かすのは科学的真実ではなく文学であるかもしれません。


また、かつて読書メモを書いた『エビデンス社会学』では、科学的真実と”文学的”主張とをそれぞれ「命題のゲーム」「証言のゲーム」として、エビデンスというものの性質が時代を経て変わってきたことが書かれていましたが、これも全く同じ流れですね。

同書の最後について、自分のメモを見返すと以下の通り。

20世紀後半から、科学によるリスク評価が科学の外(政治や経済)で必要となった。従来科学と異なり、高い不確実性・強い利害関係を持つ問題領域。原発事故やパンデミックなど、科学と政治が絡み合うが、科学では回答できない問題(ワインバーグ「トランス・サイエンス』)

トランス・サイエンスの解決策として、命題のゲームにおける正解を国家・企業・国民など多様な利害関係者に対して専門家が証言する二次的な証言のゲームが発生。ルーマンのいうところの、システム信頼から再び人格的信頼へ。

科学が証言のゲームだった時代から、命題の立て方と証明方法が整備されて科学が進歩し、いよいよ科学が政治的意思決定に関わり始めるまでに至った今、再び命題のゲームから証言のゲームに変わりつつあるという非常に鋭い指摘。

最初に挙げたツイートにおける「呪術」という表現も、ある意味では中世の疑似科学に近いですし、我々が直面しているのが証言のゲームであるひとつの証拠なのかなと思います。


それでは、また。

/ゴドー